漣の大皿
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先日着物雑誌の取材を受けた際に、改めて自分の着物ワードローブを見直した。久しぶりに対面した付け下げは、緑がかった茶系の色無地にカラフルな色糸による縫い取りのラインがモダンな一枚で、お稽古場の方からいただいたものだ。が、どうにもこうにも帯び合わせが難しく、顔色が悪く見えてしまう。いただき物はありがたいが、自分なりに着こなすための工夫には骨が折れる。同じく、いただき物の松葉色の織り名古屋帯。これも相棒選びが難しく、二軍入りしていた。その二つを何気なく組み合わせてみたら、両者が以外にもマッチ。白地の帯揚げで抜けをつくり、牡丹色の帯締めで効かせたら、地味な着物と帯が、ふわりと華やぎ、春を待つコーディネートとなった。箪笥のなかで眠っていたものも、小物使いで新鮮に着こなせたことが何より嬉しかった。いざお茶のお稽古へ。
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竹芸作家の藤塚松星さんに茶杓作りを教わる、という好機に恵まれた。藤塚さんとの出会いは大学1年のころにまで遡る。「木ゼミ」という木を通して日本の文化を追求するゼミに所属していた頃、竹に興味をもった私は無謀にもアポなしで鎌倉の竹材店を押しかけ、紹介していただいた作家さんが藤塚さんだった。以来、年賀状のやりとりにはじまり、個展にご案内いただくなど、細く長いお付き合いが20年も続いている。
茶杓づくりは、当然一筋縄ではいかなかった。竹という素材を読むことから、火入れ、曲げ、削り・・・一見単純な形をした茶を掬うためだけの道具の、なんともやっかいなこと。作りはじめてすぐに、誤魔化しのきかない厳しさと対峙することとなる。シンプルなものほど難しいということは、茶杓作りに限ったことでない。例えば、書道においてもひたすらまっすぐな線を引くことほど迷いが生じ、小唄でもさらりとした短い唄ほどとらえどころがなく、洋服だって飾り気のないものほど着る人の本来の姿がつきつけられる。
今回は茶杓に加えて、それを収める筒の作り方まで教わったため、その場で完成には至らなかった。続きは、これから。長い道のりとなるお茶の道に対する自分の思いを込めて、最後まで仕上げたい。
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お草履ブランド<楽艸>さんの個展へ行く。今回のテーマは寿ぎや祝いの色をテーマとした晴れの日の装い。もう一度嫁に行きたくなるような、華やかな草履やバッグが勢揃いしていた。楽艸を立ち上げたデザイナーで、敬愛するお姉様でもある高橋由貴子さんが作る作品は、モノの背景にあるストーリーが印象的。だからこそ、様々なブランドを経験した大人のお洒落ゴコロをそそる。
たとえば、鶴亀モチーフのバッグには、「鶴は天から舞い降りる幸せ、亀は自分で築きあげる幸せ」という意味が込められている。モダンな水引柄のバッグの裏には笑い梅の文様を配するなど・・・吉祥文様をベースにしながらも、遊び心あるデザインにときめき、思わず笑みがこぼれる。また和洋どちらのブライズスタイルにも活躍するクラッチバッグは、女性の手を美しく見せるために細身のスティック型にこだわっている。このほか、1920年代の刺繍グローブからインスピレーションを得た半衿やバッグも、幅広い装いに活躍しそう。
会場となったのは、築80年の戦前の繊維問屋をリノベーションしたギャラリー<アーキテクツ オフィス ギャラリー>。和洋そして時代がミックスされた作品と、ギャラリーの雰囲気が、互いの印象を引き立てあった、とても魅力的な個展だった。
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3月に発売の『七緒』にて、お稽古特集の取材を受けた。現在習っているだけでも小唄に三味線、お茶に書道・・・それ以前には俳句に織物、お花に着付け。私のなかで、着物とお稽古はセットだった。はじめはもちろん着物を着たいがためにお稽古をしていた。だが、今はお稽古をするために、着物が必要なのだと感じて、それぞれに合わせたコーディネートを楽しんでいる。
お稽古の着こなしで大切なことは、先生や師匠の雰囲気や好みに合わせることだ。自分の好きな組み合わせではなく、教えていただくという謙虚な気持ちを、着物に込めて装う。それは洋服でもいえることだと思う。ちなみに小唄の師匠は、赤坂の芸者さんだったこともあり、華やかな色遣いが好み。撮影では、紫の枝垂桜の小紋にクリーム色の絞りの帯を合わせた。帯揚げはピンク。実は、以前にもブログで紹介したが、赤坂芸者の装いのフィロソフィーとして、どんなに年齢を重ねても帯揚げはピンクと決まっている。そのため、私もピンクだけで7~8枚のバリエーションを揃えた。はじめは「師匠に口うるさく言われるから」と思いながら使っていたが、今はその効果を実感している。ほんのり淡いピンク色はチークのような感覚で顔映りに上品な華やかさをもたらすのだ。帯締めは濃い色でもいいが、帯揚げは絶対に淡い色合いのほうが美人度が増す!と我セオリーにもなりつつある。
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お友達の「kimono生活」の井上さんのところで、半衿つけをした。半衿つけは、着付け教室をはじめ、いろいろなところで習ったが、いまいち自分のものとして習得できていなかった。井上さんは和裁を習っていたこともあり、ご自身もきもので生活なさっている。そのため、使う衿芯をはじめ、しわが寄りやすく一番難しい衿肩わきの部分の手つきや縫い方のコツなどを、いともわかりやすく丁寧に教えてくださった。裁縫が苦手な私も、なんとか満足のいく仕上がりとなった。
そして、裁縫のテンションをあげるために、最近裁縫箱をお色直しした。函は和菓子が入っていたもので、ほどよい深さと大きさが適任。そこに、京都の友人からいただいた縮緬の針山、京都三条のみすや針で求めた和鋏、糸、メジャー、香袋、ボタンや安全ピン、遊び心として祇園尾張屋のかおり丸を添えて。開けるのが楽しみになる裁縫箱が完成した。
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“初”がつく事柄は、どことなく気持ちが引き締まる。初詣、初稽古、初もののお野菜、初売りだって気合が入る・・・?! お茶の初釜もしかり。着物は新年らしい柔らかな色合いにしたいと思い、柳色の色無地感覚のもの。それに白地ベースの唐織の帯、宍色(肌色)の帯締めで、穏やかなコーディネートをここがけた。
今年は、家元ご夫妻がお出ましになったので、心地よい緊張感といっそう華やいだ雰囲気のなかで濃茶を堪能できた。
長時間の正座に耐え、最後のお楽しみは福引である。初めて福引をしたときに、私が引いたくじには「福」と書かれていた。ハズレではなかったと、1人はしゃいだら、実は「福」のくじは“その他大勢”の意味だったのだ。当たりくじは、松竹梅と鶴亀、寿、福寿の7種類で、茶碗や干支の香合、お茶、茶扇子、袱紗などが景品となる。ちなみに、はずれの場合には懐紙がいただける。私は精進が足りないせいか、3年連続お福さんである。でも、はずれをあえて「福」とする心遣いに、日本文化の奥床しさを感じた。
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今月から源氏物語を読み始めた。恥ずかしながら、学生時代に漫画であらすじを追っただけで、きちんと訳文を読んだことがなかった。きっかけはというと、年末に1991年放映の橋田壽賀子脚本の源氏物語を再放送しており、その面白さにハマったからだ。もちろん、登場人物のほとんどは『渡鬼』のキャスト。御所の中も“渡る世間は鬼ばかり”、だ・・・。末摘花は泉ピン子、その母君は赤木春恵、明石の入道は藤岡卓也など・・・皆、姫君の役柄をするにはかなりとうが立ちすぎており、そのインパクトゆえに物語に引き込まれたのだから、文句は言えぬ。笑いをこらえ、ツッコミを入れながらも二日間どっぷりハマった。
本の話にもどるが、私が選んだ訳者は友人が絶賛していた円地文子さんの<新潮文庫(全6巻)>。日本語のなんと清雅で、美しいことか。これを最後まで読みきることができたら、与謝野晶子や田辺聖子、瀬戸内寂聴のものなど、他の訳者とも是非読み比べてみたい。内容はおもしろいほど、すんなり読み解ける。だが、困ったことは、頭に浮かぶ登場人物の映像が、すべて渡鬼メンバーということ。あぁ、もっと美しい映像に思い巡らせてみたいものだ。
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年末に帰省した際、主人のおじい様の遺品でもある書のお道具を譲り受けた。場所の句が刻まれた文鎮や水差し、小筆など・・・。いずれも長年大切に使っていたようで、味わいがある。
稽古はじめということもあり、着物で参ずる。着物は焦げ茶地に赤と白の十字絣柄の結城縮。帯は時節の椿を。白地に赤の飛び絞りの帯揚げと鶸色の帯締めで新春らしく。実は書のお稽古に着物でいくのは初めてだったので、先生も奥様も喜んでくださった。
そもそもお軸の書を読み解きたいがために、変体仮名を勉強しようと思ってはじめたお稽古。昨年6月から通いはじめ、早くも半年以上が過ぎた。仮名文字の背景や古今和歌集のこと、本や手紙の仕組みにいたるまで・・・こちらが求めれば先生は多岐にわたりご教授くださる。ゆっくり、じっくり、一歩ずつ。理解を深めてゆきたい。
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1月7日は人日の節句。ということで、七草粥をつくった。本来は、前日の夜に7種の野菜を俎に乗せて、豊作を祈る鳥追いの囃し唄をうたいながら包丁で叩き、当日の朝に粥に入れるそうな。ちなみに、1月15日は小正月で、7種類の穀物を炊いた望粥(もちがゆ)を食べ、邪気を払うとか・・・などという能書きは机上のものであり、胃袋のほっするままに暢気にも16穀米で、しかも昆布と鰹の合わせ出しで粥をつくった。この時点で既に粥とは呼べず、雑炊と称するほうが近い。粥なのか、雑炊なのかはさておいて、味はまずまず。正月休みに酷使した胃袋も、ようやく暴食から開放されて穏やかに粥を受け入れてくれた。
歳時記にまつわる食というのは、単なる縁起物というだけでなく、季節ごとの理に叶った働きをしているということを実感した。
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繰り返し読む本というものがある。特に日本語の美しいエッセイは、何度のとなく細胞に染み込ませるように読み返す。そういう類いの本は、本棚へなど納まっていない。仕事机の脇のサイドシェルフに積み重ねられていたり、寝室やトイレ文庫にて常にスタンバイされている。この『風貌 私の美学~土門拳エッセイ選』(講談社文芸文庫)もその一冊である。本書には、<風貌>と<私の美学>の二編が収められているが、私はことに<風貌>が好きである。15年以上にわたって撮影した“僕の尊敬する人、好きな人、親しい人”たちのポートレートとともに、撮影のエピソードや被写体である人物について氏の実直な言葉で語られている。例えば、こうだ。日本画家の鏑木清方の項では「フト、気がづくと、そこに清方さんが座っていられた。瞼がひとく垂れ下がっているので、目を開けていられるのか、つぶっていられるのか、心許なかったが、そこに、黙然と腕を組んで座っていられた。・・・」また、高村光太郎の項にある、「僕は囲炉裏端に腰掛けて、先生とその一本のビールを茶碗で乾杯して、別れを告げた。」など、“茶碗でビールを乾杯する”という情景が、気取らない昭和のリアルな情景として映り、想像が膨らむ。幸田露伴にいたっては、撮影を意識したポーズが「如何にもさもありなんという余りに露伴先生らしいポーズ」なので、それが一種の芝居のようで、甘い、説明的な、作為の、つまりは嘘の写真になってしまったとある。作品集を作る折には、編集者と打ち合わせをしている場面が掲載されている。特別にポーズをとらない素直な写真だからこそ、かえって露伴の古格な風格そものもを撮る結果となり、撮影者である氏自身がそれを悟るのに10年もかかったと告白している。
私が氏の言葉を何度も追いかけるのは、そこに実感にもとづく真実があるからだと思う。森茉莉の言葉を借りると~「真実」を持って来るとその人間のする事の一つ一つに上すべりがない。厚味がついて来る、真実がない時、芝居はしてもしなくてもよかった芝居になる。文章は書いても書かなくてもよかった文章になる。~この一文に尽きる。
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