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2009年1月 6日 (火)

土門拳

Photo_2 繰り返し読む本というものがある。特に日本語の美しいエッセイは、何度のとなく細胞に染み込ませるように読み返す。そういう類いの本は、本棚へなど納まっていない。仕事机の脇のサイドシェルフに積み重ねられていたり、寝室やトイレ文庫にて常にスタンバイされている。この『風貌 私の美学~土門拳エッセイ選』(講談社文芸文庫)もその一冊である。本書には、<風貌>と<私の美学>の二編が収められているが、私はことに<風貌>が好きである。15年以上にわたって撮影した“僕の尊敬する人、好きな人、親しい人”たちのポートレートとともに、撮影のエピソードや被写体である人物について氏の実直な言葉で語られている。例えば、こうだ。日本画家の鏑木清方の項では「フト、気がづくと、そこに清方さんが座っていられた。瞼がひとく垂れ下がっているので、目を開けていられるのか、つぶっていられるのか、心許なかったが、そこに、黙然と腕を組んで座っていられた。・・・」また、高村光太郎の項にある、「僕は囲炉裏端に腰掛けて、先生とその一本のビールを茶碗で乾杯して、別れを告げた。」など、“茶碗でビールを乾杯する”という情景が、気取らない昭和のリアルな情景として映り、想像が膨らむ。幸田露伴にいたっては、撮影を意識したポーズが「如何にもさもありなんという余りに露伴先生らしいポーズ」なので、それが一種の芝居のようで、甘い、説明的な、作為の、つまりは嘘の写真になってしまったとある。作品集を作る折には、編集者と打ち合わせをしている場面が掲載されている。特別にポーズをとらない素直な写真だからこそ、かえって露伴の古格な風格そものもを撮る結果となり、撮影者である氏自身がそれを悟るのに10年もかかったと告白している。

私が氏の言葉を何度も追いかけるのは、そこに実感にもとづく真実があるからだと思う。森茉莉の言葉を借りると~「真実」を持って来るとその人間のする事の一つ一つに上すべりがない。厚味がついて来る、真実がない時、芝居はしてもしなくてもよかった芝居になる。文章は書いても書かなくてもよかった文章になる。~この一文に尽きる。

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